2007年12月31日月曜日

クリスマス・プレゼントがお年玉に〃

皆様明けましておめでとうございます。
 
 どんなお正月をお迎えになりましたか。生野教会では今年も午前零時のごミサで年が明けました。今年は韓国語を主とした日韓合同ミサということで私が司式することになり、右には190センチ近い院長のルカ神父さん、左には100キロ越した主任のウルバン神父さんに挟まれて感謝の祭儀を祝いました。説教のテーマは「小さき兄弟になるために」でした。

 ミサ後、新しい年の初めを祝って、お屠蘇代わりにミサワインで乾杯しました。このあと、縦2横3cmしかならない小さなお年玉をいただきました。実は、これはパソコンのメモリーカードで去年の暮れから失くしてしまって困っていたところでした。

 クリスマスの翌日、小さなクリスマスプレゼントを持ってお年寄りの病院訪問した時に、なぜかその時に落としたらしいのです。老人ホームの職員が拾われて、パソコンで調べてみると私の写真が出てきたとのことで、おばちゃんの家族に渡してくれたお陰で無事手元に戻ったと言うわけです。

 クリスマスのプレゼントのお返しがお正月の「落し玉」になったと言う話です。初笑いになれましたでしょうか。

2007年 年の瀬

主イエス・キリストのご降誕のお喜びを申し上げます。

クリスマスをいかがお迎えでしょうか。

2007年12月3日月曜日

教会にも韓流ーーソウルから青年たちが。 

  11月27日~30日にかけて3人の青年男女が日本の教会との交流を求めてやってきました。実は彼らの担当司祭である朴神父さんから、この件でメールをもらっていたのですが文字化けしていたために連絡が充分取れないままの来日となりました。幸い私の携帯の番号を知っていたので、27日日本橋教会で落ち合い、大阪名物のうどん屋さんで夕食を一緒にしながら話が盛り上がりました。

 一人の女子青年はカメラが専門ということで、興味のあるものはみんな写真に収めていました。背の高いもう一人の女子青年は大阪に6ヶ月ほど住んだことがあるそうで、流暢に日本語を話しました。12月1日に洗礼を受けるということで洗礼名をオタア・ジュリアに決めているとのこと。そしてさきのカメラマンの彼女が代母になってくれると嬉しそうに話していました。生き生きとした信仰心がまぶしいほどでした。もう一人の青年はメールをくれた神父さんの弟ということですごく誠実な感じの青年でした。

 日本橋教会の数少ない日本人女子青年のひとり、Yさんは大阪育ちで、2年前に洗礼を受けたかたでどんなことにも喜んで参加してくれる。夕食後は、大阪のみなみを案内してくれました。私は、彼らが日本橋教会にもどってから12時過ぎまで2次会に一緒に参加しました。次の日は午前と午後に会議が入っていたので、Yさんに大阪市内を案内してもらった。

 木曜日は11時からの生野の「オモニミサ」に参加。在日韓国人の1世たちの話は心痛いものだったに違いありません。午後からは3人を京都に案内いたしました。清水寺と金閣寺を廻って「京都フランシスコの家」で一泊。紅葉した京都に深い印象を受けたようです。しかし、それ以上に日本の殉教者の歴史に触れたこと、静かな祈りの時をもてたこと、温かい兄弟ルカのもてなしに感激したと話していました。あらためて「京都フランシスコの家」の役割の大切さを知りました。彼ら3人はきっとまた、多くの青年たちと共に交流促進のために日本を訪れてくれるでしょう。

2007年10月23日火曜日

ベトナム―驚きの3日間

 10月15日から18日まで、大阪南地区司祭修道者の1泊研修会で、今年はベトナムに行って来ました。ちょっと長めの海外研修旅行となったため、費用も例年の4倍と高めで気が引けましたが、恵み多い体験学習だったと今は感謝しています。飛行場から市内に入る頃、急に雨が降り出しました。ベトナムはまだ雨季とのことで、午後にはいつもスコールに見舞われましたが、幸い3日間とも車で移動中だったので事なきを得ましたし、気温は日中30度前後になりますが、雨の後はしのぎやすくなりました。

 この研修を企画し、案内してくださったのは、釜ガ崎・旅路の里の責任者であるイエズス会の高山神父様です。23歳で難民として日本にこられた苦難の道を特集"高山神父"でぜひご一読ください。彼のお陰で翌日、枢機卿様にもお会いでき、ベトナムと日本の教会との意外な係わりを知ることが出来ました。彼は移住・難民協議会の担当司教もされていたとのことで、神戸地震の時には来日されベトナム人たちを励まされたとのこと。

ちなみに、現在日本で働いておられる外国人の司祭・修道者の数が一番多い国はベトナムではないかと思います。トラピスチヌとして既に30人以上のシスターが来日されていると聞いています。今回、大阪教区の司祭志願者3人を初め、各女子修道会の志願者または、その希望者達ともお会いすることが出来ました。また、フランシスコ会の本部修道院も訪問することが出来、管区長様の親切なもてなしを受けました。本部修道院は現在4階を建て増しし、そこに100人以上の志願者が共同生活をしているとのことでした。

ホーチミン市はバイクの洪水と言った感じで、そのもの凄い量のバイクがほとんど信号機のない大通りをスムースに?走り抜けていく様は世界文化遺産の一つではないかと思いました。アメリカを打ち負かしたべトコンの象徴となったクチの120キロに及ぶ地下トンネルもすごいと思いましたが、レストラン・シスターズには目からうろこでした。

最後の日、高山神父様は私達のために、教会の向かえにあるレストランでベトナム料理のフルコースとアオザイをまとった若い娘さんたちの踊りで歓迎晩餐会をしてくださいました。実は、このレストランは修道会が経営し、料理を作るのも、給仕も、踊り子?もみんなシスターなのです。共産党政権のお陰で、修道服を着て直接宣教をすることはできないので、労働を通して福音を伝えているわけです。あのやさしい微笑で。

2007年10月12日金曜日

あいよかけよの金光教

 10月8日、関西在世会主催の他宗教との交流会に参加してきました。昨年は、禅宗でしたが、今年は金光教でした。京都や大阪の在世会のかたは勿論、お告げの姉妹会、天使の聖母会、FMM、F・病院修道女会、それに北海道から飛んできたルカ兄弟と私を含め20数名が、まだ40台の若い金光教の先生から、ビデオ見てから、質疑応答という形でいろいろと話ていただきました。


 宗教者としての生き方、目指しているところといった基本的なところは、言葉使いが少し違うだけで、ほんとによく似ていると思いました。禅宗よりは実践的で具体的生き方を大事にしているように思いました。私たちが全能の父なる神と言うところを、金光教では天地金之神(参照名称・神様・教祖)と言っていると言えないでしょうか。

「あいよかけよの生活運動」
 これは、金光教が現在掲げている生活運動の基本方針です。私は初めこれは「愛を掛けよ」と言う意味かなと思ったのですが、これは「よいしょ、こらあしょ」みたいな、昔の岡山地方で、2人で物を担ぐときに使われていたかけ声の一つで、神と人、人と人,人とものとが神の御心に促されて行なう働きを示しています。師父聖フランシスコが、「さぁ、これから始めよう」と言った言葉と似ていると思いました。

2007年9月14日金曜日

那須の「山の家」にて

 9月2日から8日までまる1週間、那須の「山の家」で、北関東地区の兄弟たちと共に黙想会に参加してきました。講師はローマで教会史を勉強してこられたと言うカルメル会の大瀬神父様でした。まだ40台の若いカルメル会士で、最近書き上げられたばかりの論文「カルメル会の馨り」をもとに日本とのかかわりのあった有名無名の宣教師、殉教者、聖人たちの、華やかな歴史には現れてこない生き方、現実の歴史の流れの中で神の道具となっていった不思議な歩みを新しい切り口で興味深く話してくださいました。
 
 早坂司教とコルベ神父と聖女テレジアの繋がりとか、日本の最初の男女カルメル会士たちの隠された経緯など、目からうろこの話がたくさんありました。私はこの話を聞きながら、今年日本宣教100年を迎えるフランシスコ会のことを思い少しさびしい思いをしました。というのは、私をはじめ多くの兄弟はほとんど興味も関心も持っていないのではないでしょうか。実際、最初の兄弟たちがどのようにしてやってきたか、その背景には何があったのか、彼らはどのように福音を生き、どのように伝えたのか私はまったく知りません。

 *管区本部より:フランシスコ会再宣教100年のために宣教の歴史の小冊子を作成中とありました。今から心待ちにしています。

久しぶりの更新です

 久しぶりの更新です。実はブログ更新の仕方が分らなくなっていました。幸いパソコンに詳しい方に教えていただき再び大阪生野から、いろんな出来事、出会い、日々の思いを発信していきたいと思います。



 

2007年8月1日水曜日

平和の祈り ―雨ニモマケズ―

 今年も「平和旬間」がやってきました。皆さんはどんな取り組みをされますか。私は特別なことは出来ていません。せいぜい折り鶴を折りながら大阪教区の平和旬間の行事(シナピスをクリック)に参加することぐらいです。

 ところで、私はNHKの朝の連続ドラマ「ドンと晴れ」を時々見ているのですが、宮沢賢治のふるさと岩手が舞台になっているのに心惹かれています。「座敷わらじ」の話はなんとなく好きです。

宮澤賢治「雨ニモマケズ」

2007年7月20日金曜日

ブログをはじめました。

子供たちは今日から夏休み。皆様いかがお過ごしですか。

 先日の福音(マテオ11,28-30)で、疲れたもの、重荷を負うものは誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげようと仰せになっています。次の日の福音では(マテオ12,1-8)で人の子は安息日の主であると。そして今日の福音ではイザヤの預言を成就した方として語られています。

 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」

 キリストがもたらしてくださる正義と平和はこのようにして実現していくのですね。まもなく平和旬間がやってきます。彼に望みをかけ、平和の道具となるようにと願っています。「私は柔和で謙遜なものだから私のくびきを負い、私に学びなさい」とのみ言葉を深く心に刻みたいと思っています。「私のくびき」とは何を指しているのか考えています。皆さんは何だと思いますか。

2007年7月14日土曜日

生野では千客万来

6月にはフィリピンで耳の不自由な人々のために活躍されているアポロ佐藤兄弟とパキスタンで知的障害を持った人々のために献身されているフランシスコ松本兄弟が訪ねてくださり、韓国のハルモニたちにやさしく話してくれました。主日のミサのときはシモン切江兄弟がオルガンを弾き、彼が答唱詩篇を独唱し、ナ・ヨハネ兄弟がプロジェクターを操作しました。3人のブラザーの兄弟がミサの奉仕をしてくれました。

7月のはじめには、総視察者としてフィリピンの管区長バルタザール兄弟と通訳者としてカリスト兄弟がこられました。この時集まった兄弟たちはこれまでの、そしてこれからの日本管区のあり方を象徴しているかのようでした。アメリカ人の兄弟、ドイツ人の兄弟、オランダ人の兄弟、フィリピン人の兄弟、韓国人の兄弟そして日本人の兄弟2人、計7人の兄弟が一つの食卓を囲みました。

6月の半ばに来た6人の韓国人の巡礼者はなんと、北京―天津から、ソウル―プサン、大阪―東京を約100日間かけて徒歩巡礼をなしとげ、帰りは新幹線で、再び生野に立ち寄り1泊され、東海道五十三次の旅の思い出を分かち合ってくれました。翌日船で韓国に戻られました。

追伸ですが、かつて私が瀬田の神学生だった頃、神秘神学(?)を教えてくださっていたカルメル会の田中輝義神父様が7月7日帰天され、昨日9日亡くなられるまで17年間チャプレンとして奉仕されていた西宮トラピスチヌ修道院で葬儀ミサが行なわれました。享年75歳。ご遺体は引き続き、修道院の墓地に埋葬されました。何十年ぶりに土葬に参加し、故人の冥福を祈りました

FIMってご存知ですか

70歳以下の兄弟の集まりに参加しました。キーワードはFIM。つまり、今度の管区会議はFraternity - in - Mission ≪派遣されて宣教する使命を帯びた兄弟共同体≫ をどう理解し、どう生きるかが問われているのだと思いました。

今回の参加者は35名ほどで、70才以下の兄弟60%ほどの参加で、もう少し多くの兄弟が参加してくれたらもっとよかったのにとの思いもありましたが、それでも久しぶりに多くの兄弟に会え、いろんな分かち合いができ、楽しいノミニケーションもありました。

わたしにとって興味深かったのは、ケーススタディーの旭川地区の取り組みと、東京ブロックの1小教区8修道院の取り組みです。それは、FIMを先取りした取り組みのように思えました。それは、共同体が従来の仕事中心の使徒的モデルから、兄弟、しかも小さき兄弟としての共同体を大事にする関係性モデルに転換しようとする試みだと感じました。

もう一つケーススタディーは日本管区がすでに直面している老老介護の問題です。もう先延ばしにして逃げる事のできない状況におかれていると実感しました。これまでの使徒職モデルでは破綻するしかないでしょう

天然温泉より、天国温泉

 2月3日午後、母が93歳の長寿を全うし天に召されました。正直ほっとしています。母にとっては長い間待ち望んでいた、恵みの日、救いの時でした。「主は折れた葦を切り離さず、くすぶっている灯心を消さず」そっと救いに預からせてくださったと感じています。

 ちょうど1ヶ月前の正月に母を訪ね、次の日には母を連れて、福岡の小郡にあるクララ会に行き、そこでシスター方とご一緒に御ミサを捧げることができました。記念写真も撮り、おせち料理もいただきました。その後、母がぜひお尋ねしたいと願っていた大橋の母の実家に寄せていただきました。母の兄になる方は96歳でまだお元気で、久しぶりに昔話を楽しむ和やかなひと時を持つことが出来ました。

 ひとつ心残りは、母が大好きな温泉に連れて行ってあげられなかったことでした。湯冷めなどして肺炎にでもなったらとの心配もあったからですが、じっさい、このたび肺炎がきっかけで亡くなったわけです。武田哲也のお母さんではないですが、母は今、「道生、なーも心配せんちゃよか。天然温泉より天国温泉のほうがよかと」と言っているようです。

 母は5人の子供を授かったのですが、二人の女の子は、食べるものにも事欠いた戦後まもなくの頃、病気で失いましたし、とりわけ婚約までしていた長男を交通事故で亡くしたときの悲しみはどれほどだったかと思います。それに母は結核をわずらい目もかなり不自由でした。人生の半分以上は入院生活だったように思います。そんななか、母はマリアの名で1968年(昭和43年)クリスマスに洗礼を受けました。私が修練者のときです。

 洗礼の水によって神のことしていただいた母はいま、私のところに来なさい休ませてあげよう」と言われて、天国の温泉に入れてもらっていることと思います。そこは最高の露天風呂です。私たちもいつかそこで裸の付き合いが出来るんですよね。

兄弟ウルバン無事退院。そして…

  1月9日に入院し、翌10日4時間を越える大手術を無事終えて、予定より1日早い19日金曜日に退院できました。摘出された腎臓は両手のひらに乗るくらいの大きさでした。脂肪が半分以上を占めていました。おかげでと言うか、7~8キロ痩せられました。

 21日からの主日のミサをはじめ、すべての司牧活動を再開されたのには驚きました。宣教師魂を見せ付けられた感じです。22日には関西地区の地区集会にも出席し、手術前後の詳しい話を本人から直接聞きました。1日~2日はやはり痛みがあってあまり眠れなかったとのことです。食事もあまり口に合わず辛かったようです。  この間、多くの兄弟たちから見舞いの電話やお祈りを頂き感謝しています。お隣のお告げの姉妹たちは園児たちを、聖体訪問につれてきて、無理やり?お祈りさせたとのことです。お見舞いの品もたくさんいただきました。中でもパンはたくさん頂いて、売るパンが出来るほどでした。

 そんなこんなもあって2月5日から静養を兼ねてドイツに帰国しました。30日間、体も十分休めて、もた元気になってもどって来られる様お祈りください。

新年明けましておめでとうございます。

ムジゲ(虹)の便りPartⅡを大阪から発信することにいたしました。

フランシスカン再宣教100年を記念するこの年に新しい風が吹き始めたらと願っています。海外からだけでなく、国内各地の声が、思いが繋がっていって虹となってフランシスカンの夢を実現できたらと思っています。正月に着物を着た姿を見るのがめっきり少なくなりましたが、「神の母聖マリア」の祝った元日のミサに預かる前の記念の写真です。韓国の人たちは家族がみんな信者になると聖家族になったと喜び祝います。写真のこの家族も昨年のご復活にご主人が洗礼を受け、毎週日曜日喜んで家族一緒にミサに預かられる聖家族です。大阪では韓国人の奥さんが信者で、結婚しただんなを信者に導くケースがかなり多いです。傍目からは結構強引だと思うんですが、結果はたいていみなさん幸福な家庭生活を築いておられます。折があろうとなかろうとひたすら信者になるのを勧められて、男性は根負けして(?)教会に通うようになり、洗礼まで行きます。 少々則を超えたことがあったとしても、人間の思惑を超えて神様の恵みは働くのだと思います。よく信徒の教育が必用だと叫ばれることがありますが、むしろ司祭が信徒を深く信頼し、その業を祝福するように招かれているのではないかと思います。そういう私がまだ信徒を信頼できてないのが現状ですが、まず一歩を踏み出そう。そう思っています。